震災のキオク
~東日本大震災~
2011年3月11日14時46分18秒
マグニチュード9.0 死者・行方不明1万8,443人(警視庁調べ)
大地震のあと大津波に遇い東北太平洋沿岸部は壊滅的な被害を受けた。
称法寺がある門脇・南浜地区には、かつて約1,800世帯が暮らしていたが、大津波により壊滅的な被害を受けた。
一帯の死者・行方不明者は500人以上にのぼる。称法寺に関しては、ご門徒約150名以上の尊い命が失われた。 すべてが瓦礫となってしまった。本堂、会館、庫裡の倒壊は免れたものの、瓦礫や車両が押し寄せ2m以上たい積。 壊滅的な被害となった。
遺族の気持ちに区切りを
被災を経験されたご住職のキオク
2012年1月1日(日)発行
本願寺新報より
細川住職は3月11日の地震の時、仙台市にある仙台別院で研修会に参加していた。 大きな揺れ、「石巻は震度6強」とカーラジオで聞き、すぐに車を走らせた。 車は進まず、石巻の外れに着いたのが、夜10時。ガソリンもなく翌日、歩いて向かったが、至る所で冠水していてたどりつけない。
13日に線路を歩き、ふとももまで水につかりながらも、ようやくお寺の近くの高台の避難所に着いた。 もう夕方になっていた。「門脇小学校が全焼という情報を周囲から聞いていたので『お寺も』と不安だったが、 高台から本堂と庫裏の屋根が見えた。正直、ほっとした」と静かに語る。
避難所で家族の無事を確認し、高台から下に降りた。目前に広がったのは変わり果てた姿。 流入物の山はあまりにすごく、道さえない。
ようやくのことでお寺に近づくと、本堂と会館、庫裏の1階部分には流入物が大量に入り込み、会館の窓には大木が刺さっていた。 お寺を手伝っていた僧侶の遺体はこの会館で見つかった。家族を妻の実家に預け、細川住職はお寺に残った。 「住職としての義務感が強かったんだろうね。どうしても離れることができなかった」と振り返る。
4月からは兄と二人で庫裏の2階に暮らす。兄は福島県浪江町にある大谷派寺院の住職だが、 同町が原発事故で立ち入り禁止となったため、 ここに移り細川住職を手伝う。
二人とも、妻子は避難し別居生活が続く。細川住職の3男はまだ小学生。 通っていった門脇小学校の変わり果てた姿、海…近づけないほどの大きな心の傷が残る。
5月中旬になって、遺体安置所になっていた葬儀会館が使えるようになり、震災犠牲者の葬儀ができるようになったという。 「それまでは何ともできなかった。自宅も流され、お寺は入れる状況ではない。でも、ご門徒の方は、直接訪ねてこられたり、 葬儀社に伝えておいた電話番号にかけてこられたり、本当に葬儀を望まれていた。
それをずっと待ってもらっていた」と振り返る。 そして、絞り出すようにポツリと語った。 「正直言って、震災で亡くなった人の時の葬儀ではご法話をしていない。ご法話する言葉がなくて…。 ただ、遺族の方々の気持ちに区切りをつけるという儀式は本当に大切で、それをお手伝いしたかった」
同寺には今も葬儀を申し込む人が後を絶たない。遺体が見つからずに死亡認定をしていたが、 DNA鑑定でわかった家族のお骨を持ち、お寺に来る人も少なくない。 門徒会館の修復工事を見守りながら「この太い柱のおかげで倒れなくてすんだ。
この地域は建築制限がかかり再建はできないからね。今も月10回ほど葬儀や法事を頼まれる。 せめて、この会館の修復だけでも12月中旬までには完成させ、みんなの集まれる場所にしたい」と語る。
本堂の海側には一本のイチョウの木が立つ。 「この木が流された家を止めていなければ、本堂は倒れていただろう。 本堂が倒れていたら『なんとかできる』って思えなかったかも。このお寺を受け継いだからには、何とかつなげたい。
そして、お寺を皆さんの心の拠りどころにしたいが、 私にそこまでのことができるかどうか。石巻の復興は10年20年単位のことだから」と語る。 毎年、年越しは除夜の鐘でにぎわっていたが、鐘は流されて見つかっていない。 「今回はゆっくりとした年越しなんだろうな」と細川住職は遠くを見つめていた。
念行山称法寺 十四代 住職 細川雅美