知る「浄土真宗」

ご門主が春の法要ご親教で

この「教章」は、わが宗門に集う方々に、ぜひ心得ていただきたい浄土真宗の要旨であるとともに、新たにご縁の できた方に、み教えを理解していただくための手引きでもあります。

私たちは近く宗祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)の七百五十回大遠忌(だいおんき)をお迎えいたしますが、この 大遠忌を機縁に、先人の方々が身をもって伝えてくださった親鸞聖人のおこころを深く受けとめ、浄土真宗のみ教えを 混迷の時代を導く灯火として高く掲げ、人々に広く伝えながら、ともに世の安穏をめざして歩みたいと思います。

この「教章」を身近に備え、折にふれて参照し、浄土真宗に親しんでくださるよう期待いたします。

二〇〇八(平成二十年)四月十五日
門主 大谷 光真

新「教章」をご制定「身近に備え、折にふれて参照」を
(本願寺新報2008(平成20)年4月20日号掲載新)

『浄土真宗の教章(私の歩む道)』

教章
教章

私たちのちかい

『私たちのちかい』についての親教

私は伝灯奉告法要の初日に『念仏者の生き方』と題して、大智大悲からなる阿弥陀如来 のお心をいただいた私たちが、 この現実社会でどのように生きていくのかということにつ いて、詳しく述べさせていただきました。

このたび『念仏者の生き方』を皆様により親し み、理解していただきたいという思いから、 その肝要を『私たちのちかい』として次の四ヵ条にまとめました。

この『私たちのちかい』は、特に若い人の宗教離れが盛んに言われております今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、 これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみ のなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたいと思っております。

そして、 先人の方々が大切に受け継いでこられた浄土真宗のみ教えを、これからも広く伝えていくことが 後に続く私たちの使命であることを心に刻み、お念仏申す道を歩んでまいりましょう。

  2018(平成30)年11月23日
浄土真宗本願寺派門主 大谷 光淳

私たちのちかい

第25代専如門主 伝灯奉告法要
「念仏者の生き方」

仏教は今から約2500年前、釈尊(しゃくそん)がさとりを開いて仏陀となられたことに始まります。

わが国では、仏教はもともと仏法と呼ばれていました。 ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありのままの真実ということであり、 これは時間と場所を超えた 普遍的な真実です。

そして、この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、私たちに苦悩を超えて生きていく 道を教えてくれるのが仏教です。

仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常」と「縁起」という言葉で表します。

「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく 移り変わっているということであり、 「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。

したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しない私というものは存在しません。 しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実 体と考え、欲望の赴くままに 自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。

その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、 苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。

このように真実に背いた自己中心性を仏教では無明煩悩(むみょうぼんのう)といい、 この煩悩が私たちを迷いの世界に繋つなぎ止める原因となるのです。 なかでも代表的な煩悩は、むさぼり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒(さんどく)の煩悩といいます。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山で20年にわたりご修行に励まれました。 しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、 法然(ほうねん)聖人のお導きによって阿弥陀如来の救いのはたらきに出遇(であ)われました。

阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界へ導こうと願われ、 その願い通りにはたらき続けてくださっている仏さまです。

この願いを、本願(ほんがん)といいます。我執 、我欲の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、 そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲はありません。

しかし、今ここでの救いの中にありな がらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、 煩悩の深さに悲嘆せざるをえません。

私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、 できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。

それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」であり、 他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。

たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、 そのように志して生きる人間に育てられるのです。

このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心を お聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさと いう三つの毒も少しずつ好まぬようになり、 阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。

たいへん重いご教示です。 今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む 人権の抑圧など、 世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、 ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。

もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、 仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。

しかし、 それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、 他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、 精一杯努力させていただく人間になるのです。

国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧と慈悲を正しく、わかりやすく伝え、 そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる 社会の実現に努めたいと思います。 世界の幸せのため、実践 運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう。

2016(平成28)年10月1日
浄土真宗本願寺派門主 大谷 光淳