知る「親鸞聖人のご生涯」

ご誕生

1173(承安3年)日野有範(ひのありのり)という公家の子として、京都の日野という地にお生まれになられました。

この時代は平安時代の末期にあたり貴族社会の没落と、武家勢力の台頭による権力闘争の最中にありました。

当時の混沌とする世の中で、親鸞聖人ご自身も幼くして事件や死別をきっかけに家族が離れ離れになるなどとても辛く悲しい思いをされました。

その後、叔父の日野範綱(ひののりつな)に連れられ、慈鎮和尚慈円(じちんかしょうじえん)のもと、 わずか年齢9才にして出家されたと伝えられています。

明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐のふかぬものかは
親鸞聖人絵詞伝
現代訳

目の前に咲き誇る桜の花は明日もあると思っていても、急に夜中に嵐が吹いて、その桜の花を散らしてしまわないといえますでしょうか。 いいえ、かならず明日も変わらずにあるという確証はどこにもないのです。今この瞬間が大切なのです。

ご修行

出家の後、比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)というところにある常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう) に仕える「堂僧」(どうそう)であったようです。

「堂僧」とは口に念仏を唱えながら、休むことなくただひたすらに阿弥陀如来の周囲を歩き続けるという厳しい修行をする僧侶のことを言います。

親鸞聖人は仏のさとりに近づくため、命がけで厳しい修行や学問に励みましたが、しかしそれでもさとりに至る道を得ることができませんでした。

この時、ご修行をされてから20年もの歳月がながれていました。

嘆徳文 嘆徳文
嘆徳文
現代訳

静かな湖の水面のように、心を集中させてみても雑念の波が立ち、静かで澄み切った月のような悟りを観想できても 、煩悩の雲に覆われてしまいました。 この命が尽きればまた果てしない迷いの旅を続けなければならない。 それなのに、世間のつきあいにふりまわされて、意味のない学問にどうしてこの命を費やせようか。 権勢と財利をすてて、苦しみを離れる道を探し求める。

出遇い

悟りの道を見い出すことができず、思い悩まれた聖人は長いご修行生活をされた比叡山を降りられ、 京都市内にある六角堂(ろっかくどう)に百日の間籠られました。

その九十五日目の夜明けに夢の中で聖徳太子が下さったお告げのとおりに、 東山吉水(ひがしやまよしみず)で他力念仏の教えを説かれていた「法然上人(ほうねんしょうにん)」のもとに百日間通われます。

そこでの法然上人のお話を重ねる中で、どんなものでも平等に救われていく阿弥陀如来のご本願の教えに出遇い、 親鸞聖人は深く感動させられるのです。

これまで悟りの道を求めても得られなかった悲しみ、煩悩から離れることがでなかった救われがたい身を、 そのまま救う他力念仏に出遇えたことは、計り知れない慶びであったことでしょう。

愚禿釈の爛、建仁辛酉の暦 雑行を棄てて本願に帰す。
教行信証
現代訳

愚禿釈の親鸞は建仁元年(1201年)に、9歳から29歳までの約20年間に命がけで続けてきた、 自らの思い計らいで修行する悟りの道を今棄てて、法然聖人が仰せになられた他力念仏にこの心身すべてをおまかせします。

流罪

現代のように個人の自由や多様性が許されない時代、生まれながらにしてすべてが決まってしまうような世の中で、 法然聖人が教えてくださる「阿弥陀様から頂戴した他力念仏によってどんなものでも平等に救われる」 という人々の喜びは大きく、あっという間に教えが広まっていきました。

しかし、それを面白く思わない人々、教えに対して誤解をもつ人々の弾圧がはじまります。

そしてある大事件をきっかけに、教団は強制的に解散させられました。

さらに僧籍をも剥奪されたのち、いわれのない罪を被せられ、法然聖人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流されることになったのです。

教行信証471項 教行信証471項
教行信証471項
現代訳

天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心をいだいた。 そこで浄土真実の一宗を興された祖師源空聖人をはじめ、その門下の数人について、 罪の内容を問うことなく不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪って俗名を与え、 遠く離れた土地に流罪(るざい)に処した。私もその一人である。 だから、もはや僧侶でもなく俗人でもない。このようなわけで、禿の字をもって自らの姓としたのである。

伝道の旅

あの弾圧事件から4年後、法然聖人、親鸞聖人の流罪は解かれました。

そしてまもなく親鸞聖人は、恩師である法然聖人が亡くなられたことを知りますが、親鸞聖人は法然聖人のおられた京都には戻りませんでした。 それは法然聖人の遺言を守られてのことなのでしょうか。

または親鸞聖人は越後へ流罪となる前後にご結婚され子供にも恵まれました。 その子供たちがまだ幼く旅をすることが難しいという理由もあったようです。

そしてしばらく経ったのち、京都には戻らずにそのまま越後を去り関東へと妻子を連れて布教伝道へ向かわれました。

親鸞聖人は僧侶を剥奪され在家の方々と同じ生活を送りながらも、世俗の生業に惑わされることなく、 お念仏こそが私を救いの唯一の道へであるという「僧にあらず、俗にあらず」 (非僧非俗 ひそうひぞく)のお立場で苦しむ人々と共に歩まれ、多くの方々にお念仏の教えを伝えられました。

『御文章』一帖 『御文章』一帖
『御文章』一帖
現代訳

故親鸞聖人は「私は弟子というものを一人も持っていません」とおっしゃられました。 「その理由は、私が阿弥陀如来のみ教えをすべての人々に説いてお聞かせするということは、 ただ如来に代わってその心を伝える者として、取り次いでいるだけです。 この親鸞が考え出した新しい教えを広めいているわけではありません。如来のみ教えを、自分も信じ、 人々にも教えてお聞かせするだけです。その他には、何を教えたからといって、自分の弟子だというのでしょか」と仰せられたとのことです。 ですから、阿弥陀如来のみ教えを奉ずるわたくしたちは、みな朋友であり、同じ道を行く仲間といわねばなりません。 だからこそ、親鸞聖人は同じ信心の人々のことを「御同朋・御同行」(おんどうぼう・おんどうぎょう)と敬意をこめて呼ばれました。

立教開宗

親鸞聖人が関東の地に来られて約20年、熱心にお念仏の教えを伝えてこられたことで、各地に門弟ができ、そこからさらに広まっていきました。

そして、親鸞聖人が52歳のとき、常陸国の稲田にある草庵で『顕浄土真実教行証文類 (けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』を執筆されたと言われています。 これには浄土真宗に関する根本が示されています。

親鸞聖人自身がそうであったように「どんなに生死を繰り返しても出遇うことが難しい、 阿弥陀如来のお念仏のみ教えによって救われてほしい」 「子々孫々と永代にわたって伝わっていってほしい」という願いが伝わってきます。

親鸞聖人はこの執筆以降も生涯にわたり内容をさらに思索整理して、よりよいものにするために加筆修正を重ねられるのです。

また、現在では『顕浄土真実教行証文類』の執筆された年(1224年)をもって、親鸞聖人を宗祖として仰ぐ浄土真宗が開かれた年とされています。

そして、聖人が60代前半の頃ふたたび京都に戻られます。 当時旅の道中は険しく危険も多くありました。さらに聖人のご年齢から考えても大変厳しい旅であったにちがいありません。

そのような危険をおかしてまで戻られた理由がいくつかあるようですが、 最大の理由は親鸞聖人が残し伝えたい教えが詰まった『顕浄土真実教行証文類』の完成させるためであったといわれています。 京都には聖人がこの執筆に必要な資料があり、完成させるためには必要だったのでしょう。

『教行信証』化身土文類 『教行信証』化身土文類
『教行信証』化身土文類
現代訳

「真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。なぜなら、前に生まれるものは後のものを導き、 後に生まれるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。 それは、数限りない迷いの人々が残らず救われるためである」

帰洛

京都に戻られてからの晩年は、お念仏の教えに対する質問や相談、間違って理解する 関東の門弟人々に対して、正しく教えを理解してもらえるよう門弟の教化(きょうけ)に努められました。

そのために聖人は多くのお聖教(しょうぎょう)を制作し書写をされます。

こうして聖人は、関東門弟への教化を通して晩年にいたるまで、阿弥陀如来のお念仏の教えを深くあじわい深められるのです。

親鸞聖人御消息 親鸞聖人御消息
親鸞聖人御消息
現代訳

「自然」 (じねん)ということについて、 「自」 は 「おのずから」 ということであり、 念仏の行者のはからいによるのではないということです。 「然」 は 「そのようにあらしめる」 という言葉です。 「そのようにあらしめる」 というのは、 行者のはからいによるのではなく、 阿弥陀仏の本願によるのですから、 それを 「法爾」 (ほうに)というのです。 「法爾」 というのは、 阿弥陀仏の本願によってそのようにあらしめることを 「法爾」 というのです。 「法爾」 は、 このような阿弥陀仏の本願のはたらきですから、 そこには行者のはからいはまったくないということです。 これは 「法の徳」 すなわち本願のはたらきにより、 そのようにあらしめるということなのです。

阿弥陀仏の本願は、 もとより行者のはからいではなく、 南無阿弥陀仏と信じさせ、 浄土に迎えようとはたらいてくださっているのですから、 行者が善いとか悪いとか思いはからわないのを、 「自然」 というのであると聞いています。

ご往生

次第に衰弱されていく聖人の口からあふれるのは、ただ仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)のお念仏のみでありました。

そしてとうとう1263年1月16日(旧暦、弘長二年十一月二十八日)、お釈迦さまが ご入滅されたお姿と同じように「頭北面西右脇」(ずほくめんさいうきょう)の状態で息をひきとられたのです。

御年90才のご生涯でありました。その後、往生された場所、押小路(おしこうじ)の南、 万里小路(までのこうじ)より東から、鴨川の東の道を通って、鳥辺野(とりべの)の南、 延仁寺で火葬にし、ご遺体は鳥辺野の北、大谷という土地に遺骨を納められました。

ご教化を受けた多くの方々は聖人のご遺徳を偲び、悲しみに涙を流されたのでした。

御伝鈔 御伝鈔
御伝鈔
御伝鈔 御伝鈔
御伝鈔

親鸞聖人 略年表

1173
(承安三年)
日野有範の子として京都の日野の地にご誕生
1181
(養和元年)
【 9歳】 伯父の日野範綱に連れられて、慈鎮和尚慈円のもとで出家。名前を範宴とし、比叡山で修行。
1201
(建仁元年)
【29歳】 比叡山を降り、六角堂参籠時に夢告。吉水の法然聖人に出遇い専修念仏に帰す。
1027
(承元元年)
【35歳】 専修念仏の停止、越後に流罪。法然聖人は土佐へ流罪。
1211
(建仁元年)
【39歳】 流罪を赦免される。その翌年法然聖人が示寂される。
1214
(建保二年)
【42歳】 恵信尼(妻)・子供をつれて関東へ。
1224
(元仁元年)
【52歳】 「顕浄土真実教行証文類(教行信証)」の執筆。立教開宗。
1232
(貞永元年)
【60歳】 このあたりに家族を伴って京都に帰られる。
1262
(弘長二年)
【90歳】 親鸞聖人のご示寂。

下記のサイトにおいて、より詳しく親鸞聖人のご生涯を教えて下さっています。

真宗教団連合 浄土真宗本願寺派(西本願寺) お西さん(西本願寺)